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コラム 解放

水回りをめぐるおばけたちの物語

 

霊というと、やはり怖い想像をするのが人々の心によくあるところだと思う。

私が一貫して持ち続ける幽霊像というのは、怨念や苦痛や恐怖からことどもを「解放」するものとしての幽霊(怪物)である。

 

 小さい頃からよく水の夢を見た。海辺に立って、海原を眺めていると、ついそちらへと誘われそうに、一歩二歩と足を進めそうになる。

私は夢の中で自由だった。そして実際、無限とも思える真っ暗な海へ身を投じた。夢の中で私はいつも悪霊のような存在だった。それは現実生活の写しだったのだろう。生活が怖くて、人々を避けるように海や池の中を泳ぎつつ、そして水の中で泣き続けた。夢では、どんなに泣いても涙は水に溶けて海と一緒になってしまう。苦痛や怨念の海をあてどなく泳ぎ続ける中で、私の胸には大きな苦痛と同時に、いつかこの悪夢も終わるのだという根拠のない自信のような気持ちもあった。

 

 或るとき、私は自分が、感情を浄化するように歩みを進めていることを知った。夢の中で、何人もの怪物が私の前を過(よ)ぎるのだが、彼らは、見た目の恐ろしさからは想像できないことに、その実、光を目指していたのだ。苦痛や恐怖に沈み切ることなく、それこそ井戸の底から這い上がるように、彼ら自身が足掻いているのだった。彼ら怪物は人間を見つめる。彼らは執拗に一つの認識を獲得しようとしていて、人間の存在を深追いする。しかし彼らにとって人間を傷つけることが存在の目的ではなかった。彼らは人間を知ることで、苦痛を超克(ちょうこく)しようとした。なぜなら彼らはまだ自分が、人間であることを信じ、自分の生きるこの世界を信じていたからだ。彼らもまたかつて人間だったのだ。彼らにとって、怨念や苦痛は水に溶かすものだった。そしてそれは、彼らなりの作法だった。赤い水は目を凝らすと透き通っている。この透明度は、一体何が透明だったのか。

 

 生きることは、どうして何もかも、自分で超えなければならない。自分で抱えて、自分で見つめ、自分の両手で抱きしめなければならない。私はそのために強くなりたかったのだ。大きく、包み込むような強さが欲しかった。そのためか夢で出会う怪物たちは、もとの小さな人間の姿を失って、時折、身体の非常に大きなものがあった。まるで巨大な建造物かのように君臨するその顔は、いつも変わらない眼差しで私たち人間を見つめていた。

 

ある日唐突に、私は夢の中で水の外にいた。そこはもう、いつも私が居た水の中ではなかった。一人の人間として海岸に立ち尽くした私は、遠くに浮かぶ顔を眺めていた。あの顔は、きっと私を待ち受けていたのだろう。あの顔は、怨念や苦痛を一身に背負い、憔悴仕切っていた。だが彼はいうのだった。「もしもこのまま、これからが苦痛に満ちた日々だとしても、あなたは生きていく限り、心して向き合わなければならない。」私は彼が静かに燃えるのを見た。遠くで音もなく燃えていたのを見ていたのは、もしかしたら私一人だけではなかったかもしれない。海岸にはほかに大勢の人間が居て、彼が燃えるのを見守っていて、私と同じように立ち尽くしていたのだ。それは私のみならず、ほかのだれかにとっても、普遍的な景色であったのかもしれない。とにかく、私たちは解放されたのだ。もう二度と、過ちに満ちた日々を、失敗に満ちた日々を振り返らないように、出来事から解放されたのだ。

(2015 9月20日)

 

 

 

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